解釈違い
桜前線を全部書き直そうかなと思う程、解釈違いがありすぎます。完結後に書き直すかもしれません。
世界観の幅を広げようとして中学生らしからぬ、そしてそのキャラらしからぬ発言があまりに多くなりすぎました。
読み返していて「あぁ、この言い方こそがフェイだ」となりません。これはマズい。しかし私はフェイの立場だからこそ言ってほしいことがある。しかしそれを言わせると結果フェイらしい発言とはならない。
それぞれのキャラらしい発言となると、短文にせざるを得ない。しかしそれでは情報量が少なくなる。キャラの個性を表現しづらくなる。それは難易度が高い。
フェイらしい発言とはなにか。サッカーで築く絆って何だ。天馬はどのように成長しているのか。
うーーーーーーーーん。
一から書き直すか。いや、それはあまりに大変だ。自分には書き直すほどの気力がない。
私はGOに「こうあるべき」という像を押し付けている。でも、それは原作のもつ本質ではない。
私はGOらしい小説を書きたい。読んでいて「これこそがこのキャラであり、この世界であり、サッカーという絆だ」と思わせられる小説を書きたい。
作者の自分は紛れもなくイナGOのガチオタクであり、イナGOらしさを判別するイナGO判定機が脳内で常時稼働している。だが、自作を読むと「イナGOの世界観や人物背景の無限大の可能性は感じる。だが、会話がキャラらしいとはいえない(特にイナクロ)」となる。
イナクロに登場する理論やタイムブレスレットのifを書いていたら、人物像が置いてけぼりになってしまった。困った。
自分の作品のキャラ像には違和感がある。まるで人形のようだ。それぞれの立場に役を押し付けられ、彼らの個性が押し殺されている。偽りの自我を作られている。
自作の小説に解釈違いを起こしすぎて(特にキャラ像や彼らの発言)…。イナGO1期と3期はまあまあキャラ像は安定している/する予定なんですが、2期はどうも難しい。
私にはイナGO判定機が脳内にある。それが作動しないということは自作にはイナGOらしさが足りていない。だが、どう改善すればいいのだろうか。読んでいて「あ〜!これこれ!このキャラはこう言う!わかる!」となる小説を作りたい。そうでなければ私はガチオタクではなく勘違いガチオタクだ。この原作への愛は偽りだったのだろうか。いや、それはない。この愛は本物だ。
…なに書いてるのかわからなくなってきました。取り敢えず桜前線は解釈違いが多いので燃やしたいです。でも書くと再履修が進んで新たな発見が待っているので書こうと思います。でも燃やしたいです。